はじめまして!

当サイトの運営者、杜原 匠です。
サイトに訪問していただき、ありがとうございます!


僕は現在、カナダのアトランティック・カナダと呼ばれる
大西洋に面した州に住んでいます。

日本を離れて、かれこれもう20年以上になります。


そこでカナダ人の妻と結婚し、長男と長女の二人の子供に恵まれ、
楽しくカナダの自然を満喫しています。


そしてカナダののんびりした生活を思いっきり楽しむために、
自分のパソコンからインターネットを利用して自宅で好きな時間に作業して
お金を稼いでいます。


このサイトでは僕が一年で、全くのゼロから月収で8万円(正確には
800カナダドル)を稼ぎ、その後はメンテナンス程度でコンスタントに
月収5万円前後を稼ぎ出す方法について説明していきます。

インターネットビジネスの経験して知った世界


僕は自分の経験を通して、誰でも自分の努力で、自分の好きなことをして
お金を稼ぐことができることがわかりました。

もちろん簡単なことではありませんが、多くの人が思っているほど
不可能なことでもありません。


今思い返せば、僕がまさにそうでした。

今でこそ、自分の興味や疑問をお金に変えるマネタイズ技術を身につけて
いますが、インターネットビジネスを始める前は、取り立て的にすることも
なく、ほぼ無駄に右から左に流してしまっていました。


でも今は約1年の勉強の結果、パソコンを使ってブログのネタにして
世界に向けて発信し、それによってお金を稼ぐことができています。


今では、僕が体験したことを伝えて同じようにお金を稼ぐことができる
ことを教えています。


そしてこれを極めることができれば、僕が常に目標としている、家族との
時間を最優先する生活の手に入れて、あなただけではなく、あなたの
家族も幸せになれるのです!

自己紹介・昔から変わり者


僕のことを簡単に自己紹介させていただきますたいと思いますが、後々
インターネットビジネスをするにおいても大切なことを経験していました
ので、そのこともあわせて紹介したいと思います。


僕は子供の頃から少し変わっていたと思います。
他人と同じことをするよりも、ちょっと変わったことができないか、と
いつも考えていました。

ですが、日本で普通に大学に行き、卒業後、普通に金融系の会社に
就職しました。理由はそれ以外の生き方を知らなかったことと、夢に
踏み出すだけの勇気がなかったからです。

でも1年と数ヶ月で辞表を提出することになってしまいました。


会社に馴染めなかったことも大きな理由ですが、一番の理由は海外生活に
憧れていたことでした。

自己紹介・日本脱出


憧れてはいましたが、実際に生活をするとなると具体的に何をどうしたら
いいのかが想像できず、日本にいて他のみんなと同じレールの上を歩いて
いたのです。

が、会社を辞めることにして、ワーキングホリデー制度でカナダに渡る
決心をしました。


最初はカナダの一番西の州ブリティッシュ・コロンビア州の一番大きな街で
ある、バンクーバーを選びました。

ここはカナダの太平洋側に位置する街として日本に近いこともあり、
多くの日本人学生が留学に来ていますし、日本人の滞在者も多い都市でも
あります。


いざカナダで日本と違う生活を、と意気込んだはいいですが、やはり日本と
全く関係のない街でいきなり生活することはできませんでした。

なんだかんだでビビリなんです。


そこで最初の2ヶ月は日本から申し込むことができる英会話スクールに
通うことにして、その後の10ヶ月の計画や予定は全く立てていませんでした。

今から思えば若さゆえの行き当たりばったりの無鉄砲な行動でしたが、
それがきっかけで20年以上もカナダに住むことになるのですから、
わからないものですね。


あと、今このビジネスをやっていて思うのですが、もちろん事前の調査や
計画は大切ですが、それだけで物事は大きく変化することは、そうありません。

やはり一番効果的に物事を激変させるには、行動することです。
よっぽどとんでもない変なことをしない限り、なんとかなるものですし、
実際、これまでなんとかなってきました。

行動をしてその結果を経験し、その後に分析と改善をしていくことが一番の
近道だと思います。

自己紹介・いざカナダに住んでみたものの


さて、カナダに住むことになったのですが、やはり計画の甘さから次に
すべきことがなかなか見つかりませんでした。

2ヶ月したら学校は通えなくなる(延長契約して授業料を納めれば別ですが)
わけですし、1年間カナダに滞在できるだけのお金も持ってきていませんでした。

働かなければ、途中で帰国する以外、方法がなくなります。

ですが、僕はここで、またしても他人と違うことをしてみたいという自分の性格に
よって、かなり無茶な選択をとってしまうのでした。


バンクーバーでの生活は、今思い出してもとても楽しかったです。
日本人学生が僕をあわせて5人住むルームシェアに住んでおり、夜になると
地下の部屋に集まって、日本の番組を見て夜更かしするのです。

その当時、まだインターネットは普及したての頃で、今のように何でも
かんでもネットで、という時代ではありませんでした。


バンクーバーの日本人観光客が立ち寄る有名な通りにコンビニ風の
個人店舗がいくつもあり、そこで日本のドラマやバラエティーを録画した
ビデオテープがレンタルされていた時代だったのです。

誰彼となく、そういう店で借りた1週間遅れくらいのTV番組をビデオで
見るのが日課になっていました。


ちなみに僕がバンクーバーに到着したのは3月でしたが、春休み時期という
こともあって多くの学生達が短期留学に来ていました。

中には1週間とかいう短い期間の留学をしに来ている学生もいましたが、
その間に見ることができない連続ドラマやバラエティーをレンタルビデオで
欠かさず見ている人も少なくありませんでした。

自分も似たようなことをやっていたものの、そういう学生を見て、
カナダに来てまで何やってんだろうと思っていたものです。


あと、短期留学という者は日本にしかなく、学校に通っていいる他の国から
の学生は短くて半年、通常数年という期間できており、1週間や1ヶ月で留学
と言っている日本人学生はバカにされていたものを知りました。


そういった学生に部屋を貸すホームステイ先の家族や、ともすると
英語学校のスタッフもいい金づるとは思っていても、内心勉強ではなく
観光に来ている連中と思っていたに違いありません。


そんな中で僕はというと、なんとなく学生気分を満喫していました。

毎日は楽しかったのですが、まったくもってカナダでしか体験できない
ような生活からは程遠い自堕落な生活でした。


その一方で、学校が終わった後に何をするのか、決めなくてはいけません。

そんな不安な状態だった僕は、学校のアドバイザーという人たちや
営業職として働いている日本人スタッフと授業が終わった後、話をする
機会を多く持つようになっていました。


普通なら学生同士の友人と町でお茶したり遊びに行ったりとするのですが、
こんなところも僕は変わっていたと思います。


そしてカタコトの英語(学校内は英語以外話してはいけないルール)で
コミュニケーションを取っていて、学校のスタッフとして働いている
日本人でさえ、この仕事を一生続けていくわけではなく、将来どうしたら
いいのだろうか、という悩みがあることを知るのでした。


ある日、学校の外でアドバイザーの人と話しをしていて、将来、何を
したいのか、という話になりました。(もちろん日本語で、です)

まったくもって具体的なことは何一つ決まっていなかった僕は、どうしたい
という具体的なことは全く答えられなかったことを覚えています。


そんな僕にアドバイザーの人は、もしカナダに残って生きていきたいので
あればバンクーバーにいてはダメだよ、とアドバイスをくれたのです。


曰く、バンクーバーやトロントという大都市には既に多くの日本人が住んで
いて、すでに飽和状態になっている、と。


そこに住み着くようになるにはよほどの技量があるとか、経済的バック
グラウンドがしっかりしているとか、頭が賢いとかでない限り、まず
不可能だというのです。


それより日本人がいないような場所に行ったほうが、残れる確率は高くなる
ので、カナダの東の端のニューファンドランド州に行ってみる気はないか?
と聞かれました。

アドバイザーの人が数年前に州都セントジョーンズとその近辺を旅行した
時に、日本人に一人も会わなかったというのです。

自己紹介・西から東へ


それを聞いた僕は、人が経験していないことを経験したいという、厄介な
性格をくすぐられて、そのアイデアに飛びついてしまったのでした。

何しろ、楽しい毎日を送っていたとは言え、バンクーバーの生活はカナダで
しか得られない生活ではありませんでしたし、この生活を続けて1年後、
日本に帰国したとしても、ロクに英語が喋られないままで、帰国すること
になるのは目に見えていました。


しかし飛行機の往復チケットの残りと州の地図、町の地図、初日のホテルの
予約だけで乗り込んだ新天地で、毎日やることがなく、何をしていいか
わからない不安と戦っていた数週間は、今思い出しても感慨深いです。


一番面白いと今でも感じるのは、日本に対してホームシックにはなりません
でしたが、バンクーバーの生活(と言っても2ヶ月だけですが、)に対して
重度のホームシックになっていたことでした。

自己紹介・それでもここに住む事になったのは


そんな暗黒(ってほどでもないですが)の数週間を過ごしているうちに、
何人かの日本人と知り合うことになります。


実はこのニューファンドランド州、世界3大漁場のひとつグランドバンクスを
すぐ近くに持つことで、日本の水産関係の商社との取引に長い歴史がありました。


古くは捕鯨、今でも続くマグロ、ししゃもやズワイガニなどが有名で、ここから
日本に送られ、日本の食卓を彩っているのです。


そんな歴史があるので、その当時30年近く住んでいる、その世界では有名な
日本人海産物ブローカーの方がいました。


その人と知り合い、日本からししゃもを買い付けに来ていた商社でシーズンの
間だけバイトすることになりました。


さらに、その後、その当時は9月から1月ごろまで日本のマグロ船が、街の港に
燃料や食料の補給に、延べ100隻ほど入港しており、そういった漁船に食料を
卸す、「仕込み屋」に営業として雇ってもらえるよう、口利きをしてもらえた
のです。


その時は僕しか働ける日本人がいない、というラッキーな状況だったこともあり、
必要な時に仕事につける幸運に恵まれました。


また、英語も仕事をすることで格段に上達したことを覚えています。

それまで、学校などで10年以上、英語を勉強してきましたが、カナダに来た
最初の1年で上達したレベルは、日本で10年以上勉強したものとは比べ物に
ならなかったことを思い知らされました。

学校でサボっていたから、ということもありますが、やはり必要不可欠という
シチュエーションが上達には一番である、と実感したものです。


例えば、船に出港前1時間に挨拶に出向いたとき、電池の注文忘れがあったと
いうことがありました。

急いで用意して1ケース持ってきてほしいと言われたのですが、その時
必要だったのは単3電池でした。

電池が英語でバッテリーということは有名ですが、単3を英語で何ていうか
知っていますか?

「ナンバー3」といっても通じません。
実は単3は「AA」というのです。

ちなみに単4はというと「AAA」。では単2は「A」かと思いきや、実は「C」。
単1は「D」となります。


トランシーバーのような携帯電話で事務所に電話し、用意して配達する
ように話すのですが、「AA」を知らないとはいえ、なんとか伝えないと
用意してもらえません。

必死になって「They need a case of batteries that second smallest.」
とか「The one use for an alarm clock.」とかいって伝えました。


学校での勉強のように、知らなかったら知らないで、バツをもらって終わり
ではなく、知らなくてもなんとかして伝わるまで努力しないといけないこと、
そしてその後、きちんと調べて次の時に備えることを学んだ瞬間でした。

カナダの生活で学んだその他のこと


結果的にこの無謀な選択が、その後のカナダでの20年以上の生活につながる
のですが、今から思えば、僕はビジネスで大切な3つのことをここでも知らず
知らずのうちに実践していたのでした。


まず第一は他人と違うことを選択したこと。
これによって僕独自というブランディングを確立させることができました。


正直バンクーバーやトロントに詳しい日本人は数多くいるでしょうが、
ニューファンドランドや東海岸州のことを詳しく知る日本人は殆どいません。


次に2つ目は先行者利益を掴んだこと。


実際にはニューファンドランドには日本人が全くいなかったわけでは
ありませんが、ばんくーばーなどとは比べ物にならないくらいの少ない
日本人しか住んでいませんでした。

その一方で漁業で世界的に有名なニューファンドランド州では、わずかにですが、
日本人を必要とする仕事があったのです。

その仕事に運良く就職できるのですが、僕がその仕事に収まってしまった
後は、次から仕事を探して日本人が来ても、仕事はありません。

すでに僕が必要としているポジションを抑えてしまっており、それ以上に
日本人を必要とする仕事がないので、他を探して別の州に去っていく
ことになる人達をたくさん見てきました。


つまり、僕が先行者利益を抑えてしまったため、僕以後に来た日本人には
利益がまわらなくなってしまったのです。


そして最後は、実際に行動したこと、です。


ニューファンドランド州に来てからも山あり谷ありでしたが、そんなに辛いと
思ったことはありません。

運良く仕事も見つかり、その仕事つながりでワークビザを出してくれる次の
仕事に繋がり、結果、20年も住み続けることになりました。

インターネットビジネスを知る切っ掛け


その後紆余曲折を経て、海産物を扱っている日本の商社に勤めてました。

その時に僕がインターネットビジネスを始めたのですが、なぜ興味を持って
始める決断をし、今も実践しているのかをお話したいと思います。


僕自身現在アラフォーで、カナダ人と結婚し、子供二人がいます。
妻は隣の州出身で学生としてニューファンドランド州に来ていた時に知り合い、
付き合って結婚しました。


が、最近、彼女の両親の健康問題が持ち上がってきたのです。

まだまだ介護を必要としている状態ではありませんが、とくに片方はもともと
健康状態が良くないので、多分、悪くなったら一気に落ちるところまで
落ちるのでは、という不安がありました。


もともと田舎出身の妻は都会(と言っても僕からいわせれば日本の地方都市
に毛が生えた程度の規模)生活に10年以上住んでいてなお、慣れないといって
いることもあり、本当にこのままこの州にいるべきなのか、ということを
話し合うことになりました。


僕がこの州のこの街に住んでいる理由は、突き詰めて考えるとその時していた
仕事だけでした。

この仕事を続けて給与をもらうためにはここに住み続けないといけない
のですが、それ以外にここに住んでいないといけない理由は何もなかった
のです。


もちろん、移るとなれば20年間で培ってきた人脈なりコネクションなりは
無くなりますが、まったく切れてしまうわけではありません。

それより何より、こちらでいわれている人生の真理の一つ、
「ハッピーワイフ、ハッピーライフ」(奥さんが幸せなら楽しい人生が送れる)
という言葉通り、妻の希望を叶えてあげたい、という思いがありました。


その時、妻は看護師になるため、大学の4年間の看護コースに通っていました。
看護師の資格を取れば、引っ越したとしても家族として生きていけるわけで
一応、家族として将来に向けての準備はしていました。


が、僕は引っ越すとなると同じ仕事はできなくなります。
海産物関係の仕事が向こうにもあるとは言え、どのような条件になるか
わかりません。

それ以上にこの仕事、重度な季節労働になるというネックがありました。


それぞれの魚に漁期があり、その時期はとんでもなく忙しく飛び回るのですが、
それが終わると、パタリ、と仕事がなくなります。

基本的に引っ越した先では妻が主な収入源となり、僕はサブに回って、
子供や家のことを見る、という役割分担にしたほうがいいのでは、と
話し合っていましたので、正直、海産物の仕事に引っ越した後でも
携わるのは乗り気ではありませんでした。


とはいえ、僕が全く収入を得られない、というのでは妻が抱えるプレッシャーは
大きいものになってしまいます。

たとえ仕事につけたとしても、職場がいい環境である保証もありません。
僕がいうのもナンなのですが、特に妻はとても人のいい正確で、得てして
周りからいいように利用されやすい性格をしているだけになおさら心配でした。


そこで家にいても収入が得られる方法がないものか、はじめて
出会うことになったのがインターネットビジネスだったのです。


そこで、とある起業家のホームページに出会います。
それまでにインターネットを使ってお金を稼ぐことができることは伝え聞いて
いましたが、本格的に調べて、詳しく内容を知ったのは初めてでした。

難しい世界なのかな、と勝手に思い込んでいましたが、読んでみると
初めて耳にする専門用語がたくさんありましたが、だからといって全く
わからないというわけではなく、特にその方のサイトはとてもわかり
やすかったことに感動したのを覚えています。

そこから僕は初心者にはグーグルアドセンスを利用したアドセンスブロブが
初心者にはオススメであることを知り、自分でも実践することに決めたのです。


ちょうどタイミングよく、その方が別の起業家とジョイントベンチャーで
コミュニティを運営することとなり、そちらにも参加することにしました。

嫁ブロックも経験


ですが、ここで一つ問題が。

このコミュニティへの参加費がかなり高額(と言っても業界内では標準
レベルで、サポートサービスはとても良質)だったこともあり、妻に
参加をすることを了承してもらわなくてはいけなくなりました。


自分で納得しているはずのビジネス内容でしたが、いざ妻に説明しようと
すると、なかなかうまく説明できず、わかってもらうのに一苦労でした。

正直に告白すると、過去に別のビジネスに手を出して失敗していることも
あり、妻はまたか、といい顔はしませんでした。


それでもなんとか説得することに成功し、ビジネスを始めることにOKを
もらいます。

結局、本人がどれだけ真剣か、ということが伝わるのでしょう。

しかし一方で失敗できない、というプレッシャーも感じました。


兎にも角にも、僕のインターネットビジネスが始まったのです。


いざ初めてみるとゆっくりと、でも確実に毎日前進しているのが実感でき
ました。

最初はブログを持てた。
記事を投稿できた。
アクセスが三桁になった。
グーグルのアドセンス審査が通った。


このように着実に前に進んでいることに、喜んでいました。

そうしてついに、ブログを初めて1年後、月収500ドルを達成するのです!


その間に色々なことに気が付かされました。

具体的にあげ始めればキリがないほどですが、一番身にしみたのはビジネスで
成功するためには自分自身をよりよい人間にしていかないと難しい、という
ことです。

アドセンスブログの隠れた凄さ


あと、ブログでお金を稼ぐことの一番のメリットをこの後すぐ、実感します。


それは一度構築したサイトが勝手にお金を稼いでくれることです!


500ドル稼いだ翌月の12月と年が変わってからの1月は、サイトの更新を
数回しかしませんでした。

ところがそれまでに貯めた記事のおかげで12月も1月も勝手に200ドル、
ブログが稼いでくれたのです。

ほとんど何もしていない状態で200ドル(日本円で言えば約2万円)の
副収入が得られたことになります。


たかだか200ドルか、と思う人もいるかも知れませんが、これは1年間、
ズブの素人が働いて、200ドルの昇給を勝ち取ったということとおんなじ
なのです。


考えてみてください。


今働いている職場で1年で200ドル(約2万円)の昇給を受けることが
可能ですか?

しかもこの200ドルという報酬、今後さらに努力すれば300どる、500ドル、
1000ドルと増やしていくことも夢ではないのです。


普通に仕事をしていて、もしくはパートで働いていて、これが可能で
しょうか?

確かに二つ目の仕事をすることで収入を増やすことは可能です。
しかしその結果、自分の時間が少なくなますし、家族を持って
いれば、家族と過ごす時間も少なくなります。

そして増えた収入をその後も維持しようとすれば、2つの仕事を辞める
事はできず、減った自分の時間は二度と戻ってきません。

しかもその後、どれだけ頑張って働いたとしても昇給を勝ち取るのは
ほとんど至難の業でしょう。


このように僕は自分が経験したことからインターネットビジネスをオススメ
しています。

自分で起業してその結果報酬を受けるのですから、自分のペースでやって
行くことができます。

子供と時間を過ごしたいのであれば、それも可能ですし、体調を崩した
場合でもゆっくり休んでいて構いません。

そんなときでもブログが勝手にお金を稼いでいてくれるからです。

最後に


ビジネスを自分でやってみようか、と思われた方はこのサイトをみて
いただければ、できるようになるはずです。
なぜならズブの素人の僕がこれまでやってきた経験を全て惜しみなく、
ここで公開しているからです。

僕はカナダに20年以上住んでいる変わり者ではありますが、別に天才でも
なんでもありません。普通にそこら編にいるアラフォーで2児の父親です。

そんな僕にもできたことを、僕の犯した失敗談も含めて、包み隠さず、
公開していますので、成功したことを同じようにやり、失敗したことを
しないようにするだけで、僕が到達したレベルに、辿り着けると
確信しています。

僕の経験談や成功例、失敗例、ビジネスモデルについて興味を持たれた
のであれば、ぜひ下記フォームから連絡をしてください。

僕と一緒に家族で楽しい生活を送るためのビジネスを始めましょう。

ご質問や感想などありましたら、お気軽にご連絡くださいね。